- 2010年6月 7日 03:18
今日クライアントと会議あるんだ。だから悪い、じゃあね。
いつかこんなことを言って、友人の前を颯爽と立ち去りたいと何度思ったことだろうか。
そんなことあったとしても随分先の話で、今は全くと言ってない凄味のようなものをフライやバルバといったワイシャツとともにまとい、ipadを片手に六本木にあるこじゃれたカフェのオープンテラスで優雅に昼休みを満喫するのが似合う上級リーマンになってから吐くセリフなんだろうなと妄想した。
そんな妄想をしている私の服装はスーツであった。
無論洋服の青山であり、ワイシャツはユニクロだが、スーツを着るのは入学式以来のことである。
スーツで所沢のベンチで寝転がっている。
私がスーツを着るということはあり得ない。
このことがどれだけあり得ないことかというと、菅さんが人事を一変して小沢色濃いメンツをそろえ始めるくらいあり得ない。
なぜそんなあり得ない状況になったか。
それは仕事である。
芸術学部に入って以来初の芸術らしい仕事が舞い込んできたのだ。
株式会社化する企業のPRCMの制作依頼。
そりゃ私だってスーツを着ちゃうよ。
名刺も作っちゃうよ。
ネクタイ締めて、ひげも丁寧に剃り、パフュームをつけちゃうよ。
そんなこんなで誰が見ても社会人という格好をした私はいつもだらだらと長く居座るはずの所沢校舎をいつもとは違い足早に出て行った。
友人たちに「今日クライアントと会議あるんだ。だから悪い、じゃあね」と言って。
知らない場所に行って知らない人に会うことは、勇気がいる。
向こうがどんな背格好をし、年はいくつなのかも分からない。
さらに今回は大学でいつもやるお遊びではなく、頼るものが自分だけ。
さらに責任が付きまとうモノホンの現場である。
小田急に揺られ、着いた場所は経堂。
いよいよ後には戻れないところまできたという実感がホームを降りるとともにまとわりつく。
少なからず緊張と不安を腹に抱えた私は何を思ったか、酒を飲もうと思った。
そういうのもありだろう。人間だもの。
私は友人に勧められたパクチーハウスというパクチー専門店でパクチー豆腐とヒューガルデンというこれまたパクチー入りのビールを頼み、戦に備えていた。
カウンター席であった。
目の前には人辺りのよさそうな兄ちゃん。年も近そうで、好奇心の塊みたいな顔をしている。その隣にはオーナーらしきおばさん。こちらはカモメ食堂の三人の中に混じっていても違和感のない風貌をしている。
「仕事帰りですか?」
兄ちゃんはビールを出しながら言う。
「これから仕事なんだ、映像のことで向こうさんのクライアントと会議」
そう、私は気取った。
その後は今の映像界の先やらipadが入ってきたことでどうなったかなどを雄弁に語った。面白かった。ただただ面白かった。
この時からだろうか、それかそれよりもちょっと前からだろうか、
まるで自分が自分じゃないような気がした。
そして、今生きている世界もまた別の世界のような気がした。
似ているようでどこか違う異世界で自分とは思えない自分がスーツを着込んで、知らない場所で知らない人と普段はすることのない知的な会話をしている。
そんな気がして、ただ、面白かった。
しかし、面白い時間とはすぐ終わるもので、面白いか面白くないかよく分からない時間の存在が見え隠れしてきた。
「そろそろ出ようかな。相手と会う前に少し歩いて酔いを醒ませたい、このままで会うのはさすがにまずいだろうし」
そう言ってちびちびと大事に飲んでいたヒゥーガルデンを一気飲み干して、そして、出来たてほやほやの名刺をオーナーに一枚渡した。そう、私はまた気取ったのだ。
外に出ると緊張は消えていた。しかし、まだ世界は普段と違う。
これからが本番である。覚悟は出来た。身だしなみもばっちりだ。
今は自分じゃない。それが逆に心地良く体に働きかけ、ほぐした。
待ち合わせ場所に現れたのは、ラフな格好をしたスタイル抜群の女性だった。
そして、そのスタイル抜群の女性に連れてかれた先はマンションの一室。
そして、そして、その場に待ち受けていたのはこれまたラフは格好の三人の自由人と犬。
またさっきとは別のちょっと斜めの上を行く異世界へ飛んだ瞬間だった。
話はうまく進んだ。報酬はないが、CMが上手くいって、そのまま話が進めば大学生では手に入らないそれなりの手厚い恩恵を被れる約束をした。
うさんくさい、恐い。上手くいくかも分からない。
だけども、自分の何かを表現する公式的な場所とそういう薄い約束でも手に入れただけ、今回は勝ちだろう。
そう思わないとこれから先やってけないなぁ、そう思った。
大学でいる間はそんな仕事でもなんでもかんでも乗らないといけない。それでこそ経験値は手に入る。
目覚めたのは監督コースの友人の家。二日酔いだった。
前日のことがまるで夢のように思える。
だけど、夢じゃないと二日酔いが言う。
とりあえず、寝ている間に何もかもが元に戻っていた。
それだけは確かだった。
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